ラファティと「オッカムの剃刀」

R.A.ラファティの小説は、SFとアイルランドやネイティブ・アメリカンのほら話をミックスしたような...しかし、よく言われることですが、「ラファティの小説」としか表現しようがないところがあります。

「われらかくシャルルマーニュを悩ませり」は、私が大好きなラファティの短編のひとつです。

キリスト教世界とイスラム教世界の交流が保たれていれば、世界の文化はもっと豊かになったはずだということで、「不純粋科学研究所」の天才?奇才?所員たちと、どこかおどけた超絶的思考マシン(人工知能ですね)「エピクティクス」が歴史の改変に挑む、ずっこけ話です(ラファティのお話って「雄々しい」とかとは無縁ですよね…)。

我々が知るところの歴史では、シャルルマーニュ(742-814)はイスラム世界に押されつつ、今の西ヨーロッパを版図とする「フランク王国」を完成させました。

シャルルマーニュの軍勢がフランスのイスラム教徒を追い払った余勢をかってスペインに遠征し、その後フランスに引き上げる途中、ピレネー山脈のロンセスバーリュス(ロンスバル峠)で殿軍(しんがり)が現地のバスク人部隊に襲撃されて全滅するという事件がありました。これはフランス語で最古の武勲詩である「ロランの歌」に歌われています。

「われらかくシャルルマーニュを悩ませり」では、これをきっかけにシャルルマーニュがイスラム世界と断絶し、キリスト教世界との文化交流が失われてしまったということで、「不純粋科学研究所」の所員たちとエピクティクスはロンセスバーリュスの事件がおこらないように歴史に干渉します。

この改変はどうやらうまく行くのですが、「不純粋科学研究所」の所員たちと人工知能のエピクティクスも改変されてしまって(SF的?にいえば、改変された時間線での存在となってしまっていて)、彼ら自身は何かが変化したという認識が持てないため改変に失敗したと思い、さらなる改変を試みます。

次の改変は、13世紀末のイギリスに生まれた神学者、オッカムの支援です。オッカムと言えば、人間の論理的思考を神学(スコラ哲学)のしがらみから解放しようという格言「オッカムの剃刀」というのが有名なのですが...

「われらかくシャルルマーニュを悩ませり」(浅倉久志訳)より:

「なぜ?」ヴァレリーが詰問した。「オッカムは中世の学者のうち、いちばんつまらない人物よ。彼がしたこと、それとも彼がしなかったことが、どんな影響をもたらすというの?」

「それはちがう」グレゴリーがいった。「オッカムは頸静脈に剃刀を当てた。もしその剃刀が彼の手からもぎとられなかったら、オッカムは血管を切断していたろう。だが、そのへんがどうもおかしい。わしの記憶だと、なんとなく、オッカムにとって万事がそれほど侘しくはなかったような気がする。ある別世界では、オッカムの窮命論が、われわれの知っているそれとは、ちがう意味を持っていたような気がする」

私もなんだか違うような気が...

「オッカムの剃刀」というのは

”ある物事を説明する為には、必要以上に多くの仮定をするべきではない、無駄な部分はひげとしてそり落としてしまえ

という格言です。後半が「剃刀」のいわれです。(より詳しくはこちら

説明すべきことがらによっては「不必要な仮定」に「神の存在」が含まれたりします。この「オッカムの剃刀」の格言のほか(というよりそれ以上に)キリスト教の教義を揺るがす議論を展開したりしたため、オッカムの主張は教皇庁から異端とされ、彼は異端審問のあげく破門されてしまいました。

しかし、「オッカムの剃刀」の考え方は、科学への道につながり、そして現在でも生きています:科学の世界では、なるべく少ない仮定で物事を説明できる方が好まれます(正しいという保証はありませんが)。「思考経済」あるいは「思惟の経済」と呼ばれるスタイルです。

世界大百科事典 第2版より:

しこうけいざい【思考経済 Denkökonomie[ドイツ]】

科学的思考ないしは理論を規制する準則の一つ。〈節減の法則〉とも呼ばれる。科学の目標は〈最小の思考の出費で事実をできるだけ完全に記述する〉(マッハ)ことにある,と定式化される。その源流は中世の〈オッカムの剃刀(かみそり)〉にさかのぼる。19世紀末にマッハおよびアベナリウスが,これを経験批判論の基本原則としたところから一般に広まり,論理実証主義に引き継がれた。現代の科学哲学では,理論の〈単純性の原理〉として言及されることが多い。

ということで、「われらかくシャルルマーニュを悩ませり」に戻ると、グレゴリーの「オッカムの剃刀」のずっこけた記憶に笑いを誘われるのですが…。

「オッカムの剃刀」に続く、改変された歴史でオッカムが主張したという「窮命論」。

「窮命論」は原文では「terminalism」。私の手では、ネット上で「terminalism」の定義らしきものはhttp://terminalism.comでしか見つかりませんでした。

それによると、terminalismとは「様子が分かっており、避けることができない末期状態を受け入れる正当な理由がなければ、その末期状態の招来を加速させる一方で、末期状態の後にある未知の状態を修復するために、あるいは末期状態を受容するために、最大限の時間と資源を使うべきという考え方」のようです。

これがオッカムの「窮命論」と一致しているのかどうかはわかりませんが、さきほど登場したグレゴリーが「オッカムの虚無主義」とも言っているので、似たところはあるのかもと思います。

とはいえ、我々の歴史でのオッカムについては「窮命論」なるものを主張したという記録はみつからないので、「われらかくシャルルマーニュを悩ませり」に登場するオッカムは、おそらく改変された時間線でのオッカムだと思われます。だから剃刀との関係も妙なことになっている。

さて、オッカムを支援して「窮命論を論理的に救命」(グレゴリーの同僚の言)した結果、歴史はどのようになったのか?

それは読んでのお楽しみに。

この記事に関係した本

R. A. ラファティ 「九百人のお祖母さん」浅倉久志訳 早川書房 海外SFノヴェルズ

トマス・ブルフィンチ「シャルルマーニュ伝説 中世の騎士ロマンス」市場泰男訳 現代教養文庫

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コメント

  1. みちる より:

    それにしても「九百人のお祖母さん」とは
    インパクトのあるタイトルですね!
    なぜそんなタイトルなのですか?
    ネタバレになっちゃうかな?

    • Dr.S より:

      そうですね、正しくは「九百人どころではないお祖母さん」かも。ラファティは好き嫌いがわかれるところがあるかもしれませんが、もしディズニーランドがお好きでしたら「巨馬の国」あたりからぜひ読んでみてください(^^)