光瀬龍「百億の昼と千億の夜」

 先日、横浜市栄区にある「田谷(たや)の洞窟」に行ってきました。正式には 定泉寺田谷山瑜伽洞 という名称です。定泉寺は1500年代に創建されたお寺で、「洞窟」は長さ1 kmほどの人工の洞窟(最初は横穴式住居に由来?)で修行場として掘られてきました。壁面には数多くの仏様や梵語が彫られており、そして秩父、坂東、西国そして四国の札所巡りのいわば出店もあって、洞窟を一巡するとそれらもお参りしたことになるようです。洞窟の内部は電球とロウソクである程度は照明されていますが、参詣者はロウソクをもらって(拝観料をはらうので、買ってというべきでしょうか)それを板に立てて持って入ります。外の摂氏32、3度という暑さに比べ、洞窟の内部は摂氏16度ということで、寒いくらいでした。別世界に迷いこんだような体験でした。

 さて、洞窟の中には小さな弥勒菩薩の像がありました。弥勒菩薩というと、京都の広隆寺の弥勒菩薩像が素晴らしいですね。弥勒菩薩は現在は天上(兜率天、とそつてん)で修行をしていて、56億7千万年後に地上に下り、衆生を救済すると伝えられています。


 広隆寺 弥勒菩薩半跏思惟像

 私が弥勒菩薩についてそのように知ったのは、高校生の時に光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」を読んでです。弥勒菩薩だけでなく、そこに登場する仏教的世界観の空間的・時間的なスケールの大きさには驚きました。そして、仏教的世界観とSF的要素とを巧みに絡めた光瀬龍の世界(マジックといってよいかもしれません)に参ってしまいました。

 以下、「百億の昼と千億の夜」で悉達多(しったーた)太子(出家し、我々の歴史では後にブッダとなる)が世界の原理である「梵天王」に対面して、「梵天王」から世界について説明をうけるくだりです。

「のう。太子どの。この兜率天は、夜摩天より十六万由旬(注:ゆじゅん、長さの単位)の上層に位置する。万由旬。言いかえれば、千六百億光年とでも言おうか。そして虚空密雲、つまり星間物質の濃密な、と言うことは絶対真空に近い極小密度の空間を重ねて、という意味だが、その宇宙空間をはるかに超えて、直径八百億光年のこの兜率天空間に統括されるこの一大世界こそ、われわれが造り出した空間の実験的模型(モデル)でもある。」

 何だかよく分からない!でもともかく壮大!そして謎めいている!で、どこか狂おしい思いを抱いたものでした...若い頃って、小説の謎めいたところに — 例えば「2001年宇宙の旅」など — 今ならばふふんというところに、のめりこんでいったような気がします。
 ちなみに、一由旬は本来8kmほどのところが作中では百万光年となっていたことは、この記事を書くまでは知りませんでした...

 それでは弥勒菩薩が下界するとされる56億7千万年後、世界はどうなっているのでしょうか?(理系はこれだからこまる?)
 地球は: そのころには太陽は年老いて赤色巨星となり、表面が現在の地球の軌道に達するほど膨張すると予想されています。地球が太陽に飲み込まれてしまうのかどうかはまだ分かりません(太陽の重力が減少して、地球の軌道が外側にずれるという説があります)が、それ以前に地球の表面は非常な高温となって生命の存在は難しくなってしまうでしょう。
太陽にのみ込まれる運命~日経サイエンス2008年11月号より

 もうひとつの天文学的な出来事: 我々の住む銀河系は40億年後、現在は230万光年離れているアンドロメダ星雲と衝突すると予想されています。ただしその際太陽どうしが衝突するということはないようですので、二つの銀河が合体するというべきでしょうか。
GIZMODO: 銀河×アンドロメダ星雲衝突は約40億年後。そのとき地球の空はこんなすごいことになっている(NASA)


アンドロメダ星雲(宇宙情報センターより)
 
 そして不思議な暗合というべきか、「百億の昼と千億の夜」では銀河系がアンドロメダ星雲と衝突するという設定になっています。
 夜空を圧するアンドロメダ星雲を眺めてみたいとは思いますが、億年単位で長生きするのは今のところ難しそうですし、そもそもその頃には人類は地球外に行っておいて欲しいです。

 さて、「百億の昼と千億の夜」について書いていて、主人公の「阿修羅王/あしゅらおう」に触れないわけにはいけないでしょう。「百億の昼と千億の夜」では「阿修羅王/あしゅらおう」は少女の姿をとって登場しますが、その魅力はこれまでにたくさん語られていて(萩尾望都さんの漫画も含む)、いまさらと気後れしてしまうのですが。

 私の心に残る場面のひとつは、悉達多太子が梵天王に面会した後、悪の化身 – 破滅をもたらしている元凶 -とされている阿修羅王にもあえて会い、そして阿修羅王にともなわれて弥勒菩薩に会いに行く途中の場面です。悉達多太子はエレベーターにひとりとり残されたと思ってパニックをおこし、必死で阿修羅王を呼びます。

「何か。太子」
太子の背後で聞きおぼえのあるさわやかな声が聞こえた。
「あ、そこに!」
金属の壁に背をもたせかけ、足先を軽く交叉させて、阿修羅王が立っていた。
その大きな目がいたずらっぽく光った。
「太子。人間、孤独であるよりは悪とともにあったほうがよいとみえるな」
太子はつめたい汗にまみれてうなだれた。汗とともになみだがほおからあごにつたわった。
阿修羅王は優しい声で小さく笑った。
「善哉、善哉。あの目犍(牛へんに建)連(もっけんれん、悉達多太子の出家を手伝った僧)めならそう言うであろうよ。太子、気にするな」

 作中、このエピソードは「摩尼宝楼閣一切瑜伽瑜祇経」という経典に記されていることになっています。その経典にはどんな風に書かれているのか知りたくて、その名をネットで検索してみたのですが、この名前の経典はやはり確認できませんでした… ひょっとするとこのエピソードは、光瀬龍の創作かもしれません。それにしても、この場面の阿修羅王の、やはりなんと魅力的なことでしょうか。

この記事に関係のある本

・光瀬龍「百億の昼と千億の夜」 ハヤカワ文庫 早川書房、1973

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コメント

  1. 南はこふぐ より:

    こんにちは!
    田谷の洞窟、私も行ったことがあるんです!!
    静かなところですが、見応えありますよね〜。

    百億の昼と千億の夜・・・なんと幻想的なタイトルでしょうか。
    仏教とSFというのが意外な組み合わせだという気がしたのですが、
    なぜか仏教と宇宙だとしっくりくる気がします。

    • Dr.S より:

      コメントありがとうございます(^^)
      この作品ほど仏教の宇宙観を取り込んだSFはないと思いますし、これからもなかなか出てこないかもしれません。
      仏教についてもうすこし知って、お寺巡りや仏像を見ることをより味わえるようになれるといいですね。