J. G. バラード「時の声」

生物を構成している細胞が強い放射線や紫外線にさらされて、遺伝子の本体であるDNAに傷がついてしまうと、細胞はDNAの複製ができなくなって死んでしまったり(細胞が積極的に「自殺」する場合もあります)、DNAの配列が変化して突然変異を起こしてしまったりします(例えばがん細胞ができてしまう)。
生物は進化の過程で、それを避けるように、DNAの傷を直す能力を獲得して進化させてきました。

DNAの修復にはいくつかの仕組みがありますが、そのひとつに「SOS応答」があります。DNAの傷がひどくなると、ふだんは読み出されない遺伝子のいくつかが読み出されるようになります。そのひとつにDNAを複製する蛋白質(酵素)の遺伝子があるのですが、この酵素は強引にDNAの複製を続けて細胞を生かしておく反面、DNAの複製はそれほど正確ではないので、遺伝子には突然変異が入りやすくなってしまいます。
このような、多少の突然変異が起こることには目をつむって、ともかくDNAの複製を継続して生き延びるための「SOS応答」の仕組みを生物は進化させてきました。
ちなみに、2015年のノーベル化学賞は「DNA修復のメカニズムの解明」(日教弘ライフサポートクラブ「子供たちに聞かせてあげたいノーベル賞」によい解説が掲載されています)に対して贈られています。

この「SOS応答」を初めて学んだ時(確かB. Lewin の “Genes” 初版で… 現在は8版)、そんな仕組みをよく進化させたものだと感動するとともに、J. G. バラードの傑作短編「時の声」(バラード自身も一番好きだと言ったとか)を思いおこしました。

「時の声」の背景となるのは、地球全体で農業生産や人口が減少し、人々の睡眠時間も長くなるとともに、眠り続ける「麻酔性昏睡」の末期患者が増加しつつあるという、終末感の漂う世界です。小説の舞台は砂漠を臨む別荘地。主人公のパワーズは麻酔性昏睡の末期患者を収容する病院の医師でしたが、彼自身、麻酔性昏睡の初期を自覚して退職しました。

パワーズの友人で生物学者のホイットビーは、放射線の生物への影響を専門に研究していましたが、生物に放射線をあてて「沈黙の対」と呼ばれる遺伝子を活性化させる方法を開発しました。その効果をいろいろな生物で調べたあげく、干上がったプールの底に不可解なマンダラ模様を作成して自殺をとげてしまいました。
パワーズはホイットビーが放射線を照射してつくり出した、いろいろな変化をとげた生き物たち(知能が向上したチンパンジー、色覚を獲得したイソギンチャク、社会性を持ったハエ、体外に神経を発達させたクモなど)をコーマという女性に見せて「沈黙の対」遺伝子について説明をします:

”「要するに、ホイットビーは」と、パワーズが言った。「沈黙の遺伝子とは,増水しているその水面の上に顔を出そうとしている生物界の最後のあがきだと言っているんだ。その寿命は、太陽の発する放射線の量できまる。そして、それがひとたびある点まで達すると、生の限界を越え、絶滅は避けられなくなる。それを防ぐために、警報装置が組みこまれて有機体の形状を変え、放射線学的にもっと暑い風土の生活に順応する。やわらかい皮膚をもった生物は、堅い殻を発達させる。その殻には、放射線防御用の重金属が含まれている。新しい感覚器官も発達する。もっとも、ホイットビーによれば、長い目で見るとそれもすべて徒労らしいのだがー」”(「時の声」より)

そして「沈黙の遺伝子」の発現は、生物に周囲の事物がどのくらいの時間を経たものなのかを知覚する、いわば「時の声」に応答する能力をもたらすようなのです。パワーズはホイットビーの実験施設で自らに放射線を照射し、それを試すことになります。


Photo: Mikhail Kalugin

砂漠の風景。地球上の生物界全体の黄昏。砂漠や星々から届く「時の声」。これらのイメージをバラードはなんと美しく描くのでしょうか。
終末感が漂う世界であっても、「時の声」の世界は、そこに身をおいてみたいと思わせる異様な魅力を放っています。

この記事に関係する本

J.G.バラード 「時の声」吉田誠一訳 創元推理文庫 東京創元社

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コメント

  1. オーロラ より:

    生物が生き延びようとする姿。
    BBC(イギリスの放送局)のドキュメンタリーで見て、その美しさに驚嘆することもありますが、
    日常でふと見つけたときは、
    生きているってすばらしい!という実感が伴います。
    花壇の花が随分陣地を広げていることに気付いたり、
    今の季節のモッコクの葉が赤くなったことに気付いたり。
    ささやかなことなんですけれどね。

    • Dr.S より:

      オーロラ様、コメントを再びありがとうございます。

      生物が自己増殖だけでなく、「環境の変化に適応して生き延びる」しくみを内在させたというのも
      感動ですよね...(そういう生物が現在までに「選択」されて当然、という見方もできますが)

      「環境の変化に適応して生き延びる」とは昨今、企業のありかたとして望ましいとされますが、
      時々は「個人」について言われることもあるように思います。

      でも私は「個人」についてまで言うことなのかなあ、と思うのです。ぽつぽつこのブログで書いていければと思っています。

      「時の声」には、いわば適応できないことを否定しない、「滅びの美学」があるように感じます。
      宇宙そのものが、終末に向かってカウントダウンをしているのだから...
      この終末感が「時の声」の世界が持つ、不思議な安らぎの背景にあるのかもしれません。