ケン・リュウ「訴訟師と猿の王」

 このブログで前回ケン・リュウの「もののあはれ」について書きましたが、その後に彼の第2短編集の「母の記憶」を読みました。こちらもすばらしい。

 そのなかでも「訴訟師と猿の王」が心に残りました。中国の歴史を借りつつ、テーマは「普通でない選択を迫られた普通の人間」になるでしょうか。
言い加えますと、SF小説でケン・リュウ以上に絶妙に中国の味を感じる作家を知りません。短編「良い狩りを」でも、中国の民間伝承(でしょうか、少し物悲しい)とスチーム・パンクが合体して、不思議な味わいをかもし出していました。

 さらにその後(お正月休みに)浅田次郎の「蒼穹の昴」を読み、映画「覇王別姫」を観たもので、はからずも清朝の中国という、「訴訟師と猿の王」と共通の背景をもつ作品に連続して触れたことになりました。

 「訴訟師と猿の王」では、主人公の田皓里(ティエン・ハオリ)は清の時代の揚州で「訴訟師」(田皓里の場合、法廷で詭弁を弄して、あくどい地主などから貧しい依頼人を助けています)を生業としていたのですが、いきがかりで清王朝が抹殺しようとしている文書「揚州十日記」(この文書は実在)を手にします。「揚州十日記」を残そうとすると清の秘密警察ともいえる組織、「血滴子」に追われることになり、田皓里はどうすべきか選ばなければいけない立場に立たされます...
そして、彼の眼前に、彼が心の友としている「猿の王」(孫悟空ですね)が不思議に実体的に現れ、田皓里と対話します。

「自分が英雄じゃないと思っているな」猿の王が言った。
「そのとおりだ」田(ティエン)は言い訳がましい口調になるまいとした。「わたしは法の隙間で麺麭(パン)くずを漁って暮らしを立てている平凡な男だ。十分な食べ物があって、酒代の銅貨が少し残っていれば満足なのさ、わたしはただ、生きていたいんだ」
「おれも英雄じゃない。やらなきゃいけない務めを果たしただけだ。」

「英雄なんてものはいないんだよ、田皓里。(中略)おれはいつも我儘で見栄っ張りだが、ときには我ながら驚くようなことをやってのける。おれたちはみんな、普通じゃない選択肢を突きつけられた普通の人間だ − いや、おれは普通の妖怪だけどな。そんなとき、英雄的な理想が、おれたちを化身にしたがることがあるのさ」

 普通ではない選択肢を突きつけられた普通の人間。

 そういえば、「もののあはれ」の大翔もそのような一人だったのではないかと思えます。大翔は「正しいときに正しい場所にいただけ」と言っていますが、光子帆船の帆をどうやって修理するのか選択を迫られたのですから。

 ではどうすべきか?「猿の王」は言います。

「王秀楚(ワンシュウチュウ:揚州十日記の作者)と同じように、おまえも今や目撃者なんだ。あいつと同じように、どうするか選ばなくちゃいけない。死ぬときに自分の選択を後悔するかどうか、いま判断しなくちゃいけない」

 私には、なぜかは分からないのですが、この「猿の王」の言葉、特に「いま判断しなくちゃいけない」がとても切実に響きます。そして、若いときよりも今の方がより強く感じるのではないかとも思えます。
 
 田皓里も、そして大翔も、もともと英雄としての素養を備えた人間ではありません。普通の人間がさしせまった状況で英雄的な行いにいたること、それをケン・リュウは物語にしたいと考えたのではないかと思います。

 ふと、ジョン・ ヴァーリイのSF「ミレニアム」を思い出しました。「ミレニアム」では、米国の国家運輸安全委員会の事故調査委員のビル・スミスが、空中衝突をして墜落しつつある旅客機で操縦を続けるパイロットの音声を記録したボイスレコーダーを聞いて、こう述懐します。

英雄的行為”という言葉をどのように定義してもいいが、私にとってはこういうことだ − それはどんな形であれ、確かに存在する。最後の一マイルを飛ばそうとしているパイロットにも、ロンドン爆撃のとき持ち場を離れなかった交換手や医者や看護婦にも、タイタニック号が沈みつつあるときも演奏をやめなかった楽団にも......
それは責任を果たすこと。

 英雄ではなくとも、英雄的ではありうる。言葉の遊びのようですが、それはどういうことなのか、いろいろと考えさせられています。

この記事に関係した本(記事内の引用も)

・ケン・リュウ 「母の記憶に」古沢 嘉通 訳 早川書房 新ハヤカワSFシリーズ
・ジョン・ ヴァーリイ「ミレニアム」風見 潤 訳 角川書店

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