ようやくですが、前々から気になっていたケン・リュウの文庫版の短編集2冊「紙の動物園」「もののあはれ」を読みました。
特に繰り返し読んでいる作品は「もののあはれ」です。この作品を中国系の方とはいえ、実質的には米国人の作家が書いたというのが驚きでした。しかし、今年のノーベル文学賞をカズオ・イシグロが受賞したことを考えると、ある地域の文化や伝統を反映した物語を作って人々の共感をよぶ上では、作者の出身がその地である必要はないのかもしれないと思います。
「もののあはれ」では、小惑星が地球に衝突するという破局を目前にして、日本人の少年・大翔(ひろと)が父親との会話を通して「もののあはれ」の感覚をおぼえていく、というのが作品のひとつの柱になっています。
脱線してしまいますが、私は昔から海外の作家によって日本人や日本がどのように描かれるのかが気になるたちでした。
私が大学生となって東京に出てくる前までに読むことができた海外SFで、日本人が登場する作品は少なく、印象に残っているのはヴォークトの「宇宙船ビーグル号」の歴史学者カリタ博士、 J.G.バラードの「終着の浜辺」のヤスダ博士(生者とは言い難いですが...)のお二方です。二人とも超俗的な雰囲気があり、自分が外国に行く時には彼らのような雰囲気をまとって行くのも悪くないな、なんて思ったりしました。
その時に比べると、今は海外作家の作品でもずいぶんと日本人や日本が登場するようになったと思います。
そのなかにあって、ケン・リュウの「もののあはれ」では主人公が日本人である必然性を感じさせられますし(なんといっても主題が「もののあはれ」ですから...)、日本人作家ではなく彼が書いてくれたおかげで、「もののあはれ」の感覚が世界の人々に共有されやすくなったのではないでしょうか。とはいえ、「もののあはれ」を説明せよと言われると私にとっては難しいのですが...
作中では大翔の父親が芭蕉の俳句
やがて死ぬけしきは見えず蝉の声
を引用しつつ、「もののあはれ」が「無常」あるいは「万物流転」の観念と結びついていることを大翔に語っています。私はこの芭蕉の句を「もののあはれ」を読んで初めて知りましたが、凄みのある句だなと感じています。
「もののあはれ」と「無常」の関係について、僧侶であり作家でもある玄侑宗久さんは、江戸時代に「もののあはれ」を考察した本居宣長を参照しながら次のように述べています。
“本居宣長は、そのように昔と今を引き比べ、とても過去など捨てきれないのが「人の情」であり、「もののあはれ」だと言うのである。
しかしそのように過去を引きずる「人の情」ではあっても、そこにも「無常」の原理は容赦なく這入り込む。移ろってほしくないものも移ろい、「あはれ」と感じるその「人の情」でさえ、やがて移ろいゆくのである。
かくして「無常」はすべてを覆い、その流れに生ずる小さな渦のようなものとして「もののあはれ」を感じる、それが日本人なのではないか。”
「死して生まれよ~無常と「もののあはれ」~」
実は私が「もののあはれ」で一番参っているのはラストです。私はあのような、夢、あるいは最良の思い出がうつつに重なってきてくれる...というエンディングには泣けてきてしまうのです。
同様のエンディングはR. A. ハインラインの「銀河市民」や、映画では「タイタニック」でしょうか。カート・ヴォネガットの「タイタンの妖女」の終わりもそうでした。
それは、何かかけがえのないものが、本人にとって永遠のものとなる刹那のように思え、憧れるような、切ないような気持ちをおぼえます。これは「無常」を背景にした「もののあはれ」とは反対なのでしょうか、それとも深いところでつながっているのでしょうか...
この記事に関係した本
・ケン・リュウ「もののあはれ」古沢嘉通 編・訳 ハヤカワ文庫SF
・ケン・リュウ「紙の動物園」古沢嘉通 編・訳 ハヤカワ文庫SF
・R. A. ハインライン「銀河市民」 野田昌宏 訳 ハヤカワ文庫SF
・カート・ヴォネガット・ジュニア「タイタンの妖女」浅倉久志 訳 ハヤカワ文庫SF